楠見清准教授の発言はある意味正しい(と思うので是非とも実践してほしい)

 いま話題の「ドブスを守る会」動画の撮影に関わったとして訓告処分をうけた首都大学東京の楠見清准教授は「嫌われることをするのは芸術家の役割」と発言していたという。

 「嫌われることをするのは芸術家の役割」という言葉はある意味正しいとおもう。芸術家だけではなく、哲学者とか科学者は嫌われることを恐れないで発言していく必要があり、社会の中でそういう役割をになっていると思う。

 そういった意味で、「結果として社会から疎外されてしまう(=嫌われてしまう)ことも厭わずに行動するのは芸術家の役割」といっていいのだろうと思う。

 実際、現在「巨匠」としてしられている有名な画家や文学者のなかには、生前にまったく認められず、不遇の一生を送ったものも少なくない。

 それは当時の基準では良いとは到底認められないようなものや、反発を買うようなものでも自分が良いと思うものを信じて絵画や文学作品を制作し続けていたからだろう。

 当時の流行りにのっていればもっと良い生活ができたかもしれない。金持ちになれたかもしれない。それでも「正しい」と信じる自分の道を貫き通した。世間からは嫌われても自分の道を進み続けた。その結果不遇のまま死を迎えた。しかし、何十年、何百年後に認められ巨匠として認められている。こういう画家や文学者の例は枚挙に暇がない。

 なかには「正しい」と信じたことを貫き通したとき、世間の大きな反発を買い、死を突きつけられることもある。ソクラテスは死刑を宣告された。それでも悪法もまた法だといってその死を受け入れた。

 「嫌われることをするのは芸術家の役割」というのは、自分が正しいと信じることを貫いたときに結果的に「嫌われる」可能性があったとしても、それを恐れずに発言し行動するべきである、ということであって、当然のことながら「嫌われるために行動する」ということではない。

 今回の事例は、この点を混同してるようにしか私には思えない。結果的に「嫌われることを厭わないこと」が重要であるのに、「嫌われることが良いこと」であると勘違いしてしまった学生と教授。

 もしそうではなく、教授がこの行為や行動が「正しい」と信じているのであれば、断固として支持し続けるべきである。そしていくら嫌われ社会から疎外されるようなことがあっても断固として「正しいのだ」と主張していかなければならないだろう。

 大学教員にとって社会から「嫌われること」のひとつには大学という安定した職場を失うことである。今回の件で言えば、学生が退学処分を受けたことに関して「不当だ」と声をあげ、自ら辞職を申し出るくらいのことはすべきだと思う。

 その結果、一生を辛い境遇で過ごさねばならなくなったとしても覚悟を決めるべきである。100年後、200年後、時代が追いついてくれるかもしれないではないか!それが芸術家ではないのか?

 「嫌われることをする人を僕は信頼している。嫌われることをするのは芸術家の役割」だ、などといっておきながら、スイマセン誤解でした〜、という態度をとり、のうのうと安定した職場である大学に居続け、芸術を教えるなどというのは厚顔無恥もいいとこだろう。